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流れる雲に似てⅡ
当時の放浪の画家・村上肥出夫
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# by enpitsu01 | 2018-01-29 21:10
流れる雲に似てⅡ
放浪の画家・村上肥出夫さんのこと④
 7ヶ月ほど続けた沖仲仕をやめた村上さんは浅草鳥越の中華料理店で働くようになった。店の主人は画家でもあったので働きながら絵を描く事に理解を示し、お陰で彼の画は入選した。入選した風景画は煉瓦のかけらを砕いて赤茶けた色を作り、黒色は鍋底の墨を削り取って描かれたものだった。「感心なおそばやさん」というタイトルで"よみうり少年新聞"に取り上げられ、NHK・TVから出演依頼が舞い込んだりした。
 放映されるというその日、楽しみにTVを見ていたが村上さんの姿は現れなかった。夜、彼から電話が掛かってきた。聞くと、店のの主人が白衣を着てNHKに行くことを勧め着用していったので、NHKの職員が2度3度と探しに来たのに出前持ちと勘違いされて気が付かなかったのだと小さな声で話をした。しかしこの事は彼の絵を描く情熱に火をつけて、居心地の良いお店もやめ、北千住の貸し間も引き払って千住新橋の梁間(スパン)の中で暮らす道を選ぶことへと繋がっていった。村上さんは橋の下で寝起きしながら銀座の歩道で絵を売り始めた。昭和36年4月、彫刻家・本郷新さんに出逢い、兜屋画廊店主・西川武郎さんの庇護を受けるようになった。
昭和38年2月、最初の「村上肥出夫油絵展」が銀座・松坂屋7階特設会場で開かれ、新聞、週刊誌、テレビ、ありとあらゆるマスコミも彼の人生を取り上げ、各界の名士の作品に対する称賛、「鬼才のシンデレラボーイ」「放浪の天才画家」と激賞されて一躍画壇の寵児へと登り詰めていっつた。 
 
 

# by enpitsu01 | 2018-01-29 20:49
流れる雲に似てⅡ
放浪の画家・村上肥出夫さんのこと③
 村上さんは西荻の方から僕に会いによく顔を出すようになった。僕のサンドイッチマンの仕事は夕方から夜10時までであったが、終わるまで待っていて一緒に食事をし、芸術論や絵作りの話をした。村上さんは大の読書家であったから文学論を始め話は多方面に渡っていき、話に夢中になって終電車を逃がしてしまう事も有った。話の外に街の風景を見たり歩いたりするのも好きだったから夜中の2時3時の人通りの絶えた銀座裏通りを俳諧し絵になる場所を探したりした。
 朝食を撮って、また歩き風景画論を交わす。さすが昼を過ぎるとお腹がすくが昨晩働いて得た日銭はもう無い。そうゆう時は日比谷公園は絶好の休息場であったから村上さんを公園内の石垣の上に残し、浅草千束の家まで戻った。父親に見つからないように母におにぎりを作ってもらい小遣いをくすねると彼の待つ日比谷公園にとって返した。
 村上さんは銀座に来ることも多くなったがサンドイッチマンの仕事につけない日もあり芝浦の沖中仕の仕事を見つけて来た。給料も定まって東京で初めて足立区北千住で下宿をはじめた。
 

# by enpitsu01 | 2018-01-29 19:13
流れる雲に似てⅡ
放浪の画家・村上肥出夫さんのこと②
仕事を始めてからふた月程たった6月半ば、事務所で仕事に出る前のひとときを寛いでいると板戸が開いて俯き(うつむき)かげんにひとりの男が入って来た。ポロシャツにざんばら髪、全財産が入っているような大きな頭陀袋を小脇に抱え、どう贔屓目に見ても浮浪者と紙一重の風体であったが、中野で絵を描いている人だと直感した。
 牧さんは西荻方面にもサンドイッチマン・クラブを持っていて、そこでも演劇志望者や絵描きの卵が働いているとの噂は耳にしていた。その人も僕の事は耳にしていたらしく目の前に居る者が絵描きの卵と直感したらしかった。人懐っこい目を向けて「村上肥出夫」と名乗った。
 この日村上さんは僕の仕事が終わるまで傍にいた。僕が歩けば一緒に歩き、僕が止まれば自分も止まるいうふうで問わず語りに身の上話しを始めた。数寄屋橋でアメリカ兵相手に似顔絵描きをしていたこと、日比谷公園の木の上で寝たりヴィデオホールの軒下に新聞紙を敷いて寝泊まりしていたこと、今は西荻に居ること、中野でサンドイッチマンをしていること、暇をみつけてはデッサンをしていること、昭和8年生まれのこと、話しは尽きなかった。仕事を終えて「赤のれん」でおそばをたべ、そして終電で別れた。これが僕と村上さんとの長い付き合いの初日であった。

# by enpitsu01 | 2018-01-29 13:29
流れる雲に似てⅡ
放浪の画家・村上肥出夫のこと①
 そのサンドイッチマン・クラブの正式な名前は僕は知らない。僕らは職場の名前を言う時「牧さんの処」とか「チャップリンの事務所」とか呼んでいた。事務所といっても銀座裏のバーが入っている小さなビルの屋上にあって、表札さえ出ていない4畳ほどの仮小屋だった。
 ボスは牧さんといい、喜劇王チャーリー・チャップリンの姿をしてプラカードを持って街を歩いていた。沖縄人であったがステッキを携えて歩く姿は映画のチャップリンに本当にそっくりで、銀座のちょっとした有名人であった。
 サンドイッチマン・クラブには老人といえる人から若い人まで色々な人達が所属していた。顎鬚(あごひげ)をたくわえて皆から山羊さんと呼ばれていた老人は戦前まで大地主だったという話だったし、定年までまだ間のある中年の人は大きな制作会社で発明に関係していたということであった。また、ラジオから流れてくる歌謡曲を聞きながら、自分が作った歌だと笑った人も居た・・・。色々と人生を重ねて来た人達が明日の見えない職場の中で、その日の賃金を稼ぐために銀座の雑踏の中に消えて行った。
今と違い若い人達も生活の為にアルバイトをしていた。大学生も居た。音楽家や文学志望の若い人も居た。僕のように画家を志している人もいた。

# by enpitsu01 | 2018-01-29 12:38